第二章
  ジェイムズ経験論の中心思想

第六節 
 辺縁ないしは包暈の哲学としてのジェイムズ経験論

 ウィリアム・ジェイムズの思想は彼の多元的な事象への逍遙的態度から様々な名のもとに命名されている。本節は根本的経験論が「辺縁 fringe」ないしは「包暈 haloの哲学」とも呼ばれうる側面をもつ所以をあきらかにする役目をもっている。もともと「辺縁」とか「包暈」なる概念は哲学においてはほとんど使われない心理学的用語である。ジェイムズがこれらの概念をたびたび使用するのは彼が他方ではすぐれた心理学者であるからであろう。ジェイムズによれば、これらの言葉は「われわれの考えに対するかすかな脳髄─過程の影響をさし示し」
(1)ており、又これらは「心的上音 psychic overtone」ないしは「あふれでるものsuffusion」とも命名されている。
 まずわれわれはこれらの点からあきらかにしていかなければならない。われわれの精神の中に生じる心像は明確なそれとしてのみ語られているというよりは、その周辺にそれと関係せられてあるところの様々な暈ないしは半影とともに語られているという考え方がある。辺縁の哲学ないしは包暈の哲学とは、そのような暈ないしは半影の存在を積極的に認めようとするところのいわば「あいまいなもの」も存在重視の哲学といえるだろう。
 包暈ないしは辺縁そのものとはジェイムズによれば心像をとりまいている様々な関係の暈に対する意識である。この意識は明確な心像に対するそれと異なって、存在が感じられないほど弱々しいものであるかもしれない。しかしそれはわれわれの意識であることは間違いなく、従って心像に付与される意味価値は、心像そのものについての意味価値なのではなく、心像とその心像をとりまいている暈と融合して一つになったものに対する意味価値であるとするのがこの考えの特徴である。
 次にわれわれの有意的な思考においては常になんらかの主題が含まれていなければ、その思考が文字通り無意味であるのはいわれるまでもない。この点から暈の性質は主題における進行を円滑にするものであると考えられている。たとえばここに二首の百人一首の句がある。
(一)
 君がため、春の野にいでて、若葉つむ、我が衣手に、雪は降りつつ。
及び
 秋の田の、かりほのいほの、とまをあらみ、我が衣手は、露にぬれつつ。
 「われわれがこれらの句の一つを暗唱して、我が衣手まで至る時、それに続きそしていわば我が衣手からめばえるところの他の句の部分が記憶からめばえ、われわれの言葉の意味を混乱しないというのはなぜであるのか。ただそれは我が衣手に続く単語が単に我が衣手の脳髄─過程によってのみひき起こされるのではなく我が衣手に先行する単語すべての脳髄─過程の加算されたものによってひき起こされる脳髄─過程をもっているからである。衣手という単語はその最も活動的である瞬間においては、それ自身としては『に』あるいは『は』へと無関係に流れこんでいく。同様に先行している諸単語(その緊張はこの瞬間には衣手の緊張よりもずっと弱い)も各々かつて種々の時に結合されたことのある多くの他の単語のいずれかへ無関係に流れこんでいく。しかし『君がため、春の野にいでて、若葉つむ、我が衣手』の過程が同時に脳髄の中でゆれ動き、その中の最後のものが最大の興奮状態で、その他のものが次第に弱まりつつある興奮状態の時には、流れこんでいく最も強い線はそれらがすべて同様にとろうとする線である。『は』でも、あるいは他の単語でもなく『に』が次にひきおこってくるのである。というのはそれの脳髄─過程が以前において衣手の脳髄─過程のみならず、その活動性が次第に消滅しつつある他のすべての単語の脳髄─過程と一致してゆれ動いているからである。」
(2)
 以上が辺縁ないしは包暈に関するジェイムズの心理学的説明である。しかしながらわれわれはこれらの概念が、仮令心理学的に説明されていようとも、それらはこれまでの根本的経験論に関する哲学的な説明と全く対応して、位置しているということに気づくだろう。そこで辺縁ないしは包暈をわれわれの考察の立場から考えてみた場合どうなるのであろうか。それらはわれわれの心的事実が単に明確な心像でもってすべて説明せられるという考えを否定し、明確な心像をともなわない心的事実も又われわれの意識状態であるとしてそれに市民権を与えようとするものなのである。そしてそれらはわれわれの心的事実として実践的生活の中で無数に存在する説明しがたい意向の形で存在しているものである。
 ここに二、三の例をあげてみよう。「三人の人が次々とわれわれに『待て』『聴け』『見よ』というと仮定すれば、われわれの意識は三つの全く異なった期待をする態度をとるようになる、にもかかわらず三つの場合のどれにおいても明確な対象が意識の前にはあらわれない。そこにおいて異なった実際的な身体的態度を考慮せず、又三つの言葉から反映する諸心像を考えられないけれども、ある残余の意識的影響のあること、まだ積極的な印象はないけれども印象が来そうである方向の感じのあることはおそらく誰も否定しないだろう。」
(3)
 「忘れた名前を思いだそうとする場合、われわれの意識状態は特殊であり、そこには一つの空隙がある。しかし単なる空隙ではない。それは非常に活動的な空隙である。……空隙は無内容であるようにみえるかもしれないが、一つの言葉の空隙と他の言葉の空隙は感じが違う。……名づけられないということは存在することと矛盾しない。……欠如の感じは感じの欠如とは別である。それは激しい感じである。」
(4)
 「俗な使い方でわれわれが『わかった』という時に、われわれが、他人の意味しているものをすぐに一瞥するというのは何であるか。確かにそれはわれわれの精神の全く特殊な感情である。読者はあることを言ってしまう前に、そのことをいおうとする意図がどのような心的事実であるかを自らに問うたことがないのではなかろうか。それは他の意図のすべてと区別された全く明確な意図であり、それ故絶対的に明白な意識状態である。にもかかわらずその中のどれだけが、言語ないしは事物の明確な感覚的心像からなりたっているのだろうか。」
(5)
 このような例によってジェイムズが強調したかったのは「われわれの心的生活においてあいまいであるものをその正当な位置へ復権すること」
(6)であった。すでにあきらかにされている如く、ジェイムズのこの考えはヒュームの原子論的感覚論に対立する。そこではジェイムズのこの考えに至るプロセスはヒューム(及びバークレー)の「完全に明白な事物について以外の心像をもてない」(7)という説は馬鹿げているという信念と対応する形ではじまり、関係の概念を具体的意識的対象としてわれわれの感じの中に包摂せしめることによって、ヒュームやバークレーの考えの排斥を効果的にしている。
 なぜにジェイムズがかかる考えに賛同したのだろうか。それはジェイムズが彼の目の前にあらわれ、はっきりと知覚できる現象が一つの小さな部分にすぎず、従って「現象する存在の背後にある広大な部分の存在」を信じていたからであろう。確かにジェイムズは現象する存在の確かさについては信じていた。同様に現象しない存在の確かさも、その量的大きさにおいては現象する存在の量以上にあるものとして、信じていた。
 それを例証する箇所がジェイムズの論文の中にみられる。たとえばジェイムズは『心理学原理』の中ではわれわれが抱くところの「明確な心像はそれらが実際に生きている場合にはわれわれの精神の最小の部分しか形作らない」
(8)点を強調する。さらに『信ずる意志』の中では、自らを超自然主義者と規定するかの如くに、ジェイムズは「この世の経験を構成する、いわゆる自然の秩序は全宇宙の一つの部分にすぎないこと」(9)そして「この可視的世界のむこうにはわれわれが積極的ななにものも知らないが、しかし現存の人間の生活の真の意味が関係しているみえない世界が広がっているということ」(10)を主張する。『宗教的経験の諸相』においては、もはや心理学的立場を超越するかの如き判断、即ち「人間の意識の中には現代心理学が仮定するところの『諸感覚』即ちそれらによって存在する実在ははじめからあきらかにされるのだと仮定する特別な、特殊『感覚』のいかなるものよりも、もっと深く、もっと一般的であるところの実在についてのある感覚、客観的現存のある感情、『そこになにかある』とよばれてもいいある知覚があるかのようにである」(11)とする判断がなされている。そしてジェイムズの心が完全に哲学にむけられていた頃の『哲学の諸問題』においてはこういった強調や主張や判断の対象をはっきりと哲学的対象であると位置づけ、「人々が今日『哲学』とよんでいるところのものはまだ未解答の問題の残余にすぎない」(12)として、あきらかに「現象する存在の背後にある広大な部分の存在」を積極的に認めようとしているのである。
 これらの例によって示される「あいまいなもの」の復権はその対象とされるものが単なる事物間の関係から人間的把握の不可能な次元にまで飛躍される形でなされる。しかし、それならばわれわれの目に「明確なもの」と「あいまいなもの」という、区別された諸対象はどのように結びつけられているのか、が問題となってくるであろう。
 辺縁ないしは包暈の概念が登場してくるのはかかる関係づけが要求されるからである。とはいえ、これらの概念は二重の意味で使われているとされねばならない。一つはこれらの概念は明確な諸心像(あるいは対象・実体)の単なる関係づけのために存する媒介的性質であったにすぎない、という消極的な使用であり、二つはこれらの概念は明確な諸心像やその他と対等に存在する性質をもつ深遠なものであるという積極的な使用である。
 論理的観点にたつならばわれわれは前者において媒介的性質を辺縁ないしは包暈の概念に帰属せしめることはできてもそれによって後者におけるような地位にまでこの概念の価値をたかめるのは一つの論理的飛躍であるといわれるかもしれない。なぜならばジェイムズのこれらの概念の規定においても、それらは心像をとりまく種々の関係の暈に対する意識以外のなにものでもないからである。
 ジェイムズはこれらの論理的矛盾に対してどのように対処しているのであろうか。これまでの論述が理解されている場合には、われわれはジェイムズがこういった矛盾ないしは多義的性格を致命的なものとして考えていないことに気づくであろう。「明確なもの」あるいは「あいまいなもの」といっても、それらははじめから論理的に規定されたものでは決してないのである。確かにそれらはわれわれがそれらを対象とよんでいる限りにおいてはわれわれの精神の対象としての機能を有するものである。だがせいぜいそれはわれわれの意識がある注意の力によってそれらにふりむけられているという事実をさし示しているものでしかないのである。
 かかる前提にたって考えてみた場合どちらかといえば辺縁ないしは包暈の概念は一つの意識をあらわすものとして「あいまいなもの」に組しているといわれねばならない。しかしそれは「明確なもの」をあまりにも一つの精神の抽象的作用の結果生まれたものであるかの如くに考えるわれわれの習慣に対して相対的位置を守るという観点からにすぎない。ジェイムズにおいて重要であるのは「明確なもの」も「あいまいなもの」も同一の経験的事実であるということであり、そして「みる立場」から区別されているにすぎないところのそれらが連続的につながっているということである。
 この主張は微妙である。たとえば連続性の概念の導入によってわれわれは、ジェイムズが経験という名の抽象的事物あるいは統一されたものとしてあるところの経験の概念を導入しているかのように感じられるからである。それがジェイムズの意を正しくくみとっていないということは第三節においてすでにのべられているので、ここでは別の形でその根拠が例証されねばならない。
 そこでまずわれわれが辺縁ないしは包暈の概念をどうとらえるかについて一応結論づけるとするならば、それは「明確なもの」のまわりにある「あいまいなもの」であり且つそれは又別の「明確なもの」を結びつけ、一方の「明確なもの」と他方の「明確なもの」が実は同一の対象に属するものであることを証拠づけると同時に、必ずしも「明確なもの」でないにしても、われわれにとって未知の深遠なもの、形而上学的輝きをもつ実在の対象と考えられるものをも、結びつけそれを同一の対象に属するわれわれの対象であることを期待させる「あいまいなもの」であるというのが、無難であろう。いいかえれば辺縁ないしは包暈の概念はあらゆる種類の二つの対象を結びつけるという媒介的役割を果たしつつも、同時に統一化の志向をとっているのである。
 とはいえ、そのことによって西田幾多郎の場合のように「統一的或者」に至るプロセスが形成されていることにはならないのである。それは何を意味しているのであるか。仮にここに一つの心像があるとする。あるいはもっと一般的に一つの対象があるとする。ジェイムズの理論によればそのまわりには包暈とよばれる半影がぴったりとまとわりついている。もしここで西田幾多郎の如き「統一的或者」を認めるならばその「統一的或者」とは中心において鮮明である対象と、そのまわりにある不鮮明な対象が、そのまま永遠の関係を保っているところの全体といわれうるだろう。そしてジェイムズの言葉を使うならば焦点的対象focal objectと周辺的対象marginal objectが不動の関係において統合された全体ともいわれるだろう。
 しかしながらジェイムズにおいては意識は注意の焦点を軸にして流れている。注意の焦点に存在する対象はわれわれにとって常に具体的なそれとして機能する。それ故、注意の焦点がむけられている限りにおいての焦点的対象がそれにふさわしいように機能するのであって、その時周辺的対象といわれているものは、そこに注意の焦点がむけられる場合はいつでも焦点的対象となりうるのである。いわば焦点的対象は周辺的対象に、周辺的対象は焦点的対象に飛躍なく移行しているのである。
 ジェイムズは以上の観点からそれら二つの対象について簡潔に次のようにのべる。「われわれの意識野の継起的変化において一つの状態が他の状態へ溶けこんでいくその過程はしばしば非常に漸次的である、又あらゆる種類の意識内容の内的な再配列が生じる。時には焦点がほとんど変わらないままでいる一方、周辺が急速に変化したりする。時には焦点が変わるのに、周辺がじっとしていたりする。時には焦点と周辺が入れかわったりする。時には、再び意識野全体の唐突な変化が起こったりする。これらについて鋭く記述することはめったにできないのである。われわれの知っているすべては、たいてい、各々の意識野はその意識の所有者に対して一種の実際的統一をもち、この実際的観点からわれわれは一つの意識野を情緒の状態とか、困惑の状態とか、感動の状態とか、抽象的考えの状態とか、意欲の状態とか呼ぶことになって、その意識野とそれに類似した他の諸意識野を分類するのである。」
(13)
 かかる一般的な説明は本節の前の部分にのべられている。「我が衣手」の次にくる単語とか、「わかった」というあの感情の場合の説明と全く同じものである。それらのいずれにも辺縁ないしは包暈の働きが重要な位置をしめていることを物語っているのである。
 そこで次にわれわれは辺縁ないし包暈のもつ意味の客観的意義をあきらかにして、哲学的思考においてはたしている役目なるものをあきらかにする必要があるだろう。それは何を意味しているのであろうか。われわれは辺縁ないしは包暈の概念をみる中で、それらは二つの対象の媒介をしている事実をあきらかにした。そこから一歩進めて仮令そこに媒介的地位を逸脱し、一つの対象となる傾向性がみとめられるにしても、それは二つの対象の調和的関係を意図し、区別される諸対象間の調停のような働きをしているという積極的意味をわれわれはみいださねばならないだろう。
 ジェイムズによれば辺縁ないしは包暈とは「継起的諸心像の相互の親近感ないしは非属感及びその主要題目の連続感」
(14)以上のなにものでもないのである。そこでは、例えば哲学的に全く相反すると考えられるところの唯名論と概念論の矛盾の問題は深刻なそれとは考えられていない。むしろジェイムズによれば「唯名論と概念論の矛盾の完全に満足する決裁に導く」(15)のは辺縁の理論が働いているからである。われわれはこの問題についてもう少し具体的に考察してみよう。唯名論者がある言葉(たとえば人類を意味している人という言葉)を使う時は、彼の心の中にあるのは必ずある音ないしはある特殊な心像プラス人類についてなら意味をなすが一個人についてなら意味をなさない他の不定数の心像をよびおこそうとする傾向である。概念論者はその言葉を発する瞬間あるいはそれ以前でさえ、それが普遍的な意味にとられるべきか、特殊な意味にとられるべきか知っており、又その意味の理解に等しいある現実的現存的な心の変化があることをみている。しかし彼らはこの変化ないしは言葉の概念的性格を純粋知性の行為とよび、それをより高い領域に帰し、あらゆる「感じの事実」とは異なるとみなすばかりでなく、それに反対するものとさえみなしている。
 ところがジェイムズによる辺縁の理論によれば「言葉の普遍的意味はある種の心的事実に対応しているということにおいて概念論者に組し……あらゆる心的事実は主観的感受性の変形であるということにおいて唯名論者に同意し、その事実を『感じ』とよ」
(16)ぶことができるのである。そこでは、辺縁ないしは包暈は心の中に生じる単純な性質、事物、事件についての心像が単にそれだけでとどまる心的事実でないということを指し示している。そしてそこからそれはその心像に対応すべきなにか普遍的なものとして考えられる「人」を感じさせるのである。しかしながらそれらは又「人」という言葉の概念的性格も又心像を通して人間の心の中にあらわれる表現的機能を示す以外のなにものでもないこと、いいかえれば、われわれの心の連続的変化に応じるものであるということを伝えているのである。
 ジェイムズの唯名論と概念論の調停の仕方は結局のところ、概念と心像が感じの様態としてはその内的性質において同質であるという見方からでてくる。あるいはもっと端的にいうならば、概念それ自体の性格をある心的状態をあらわすものであるときめつけることによって、われわれの精神の問題内にとどめようとするところからきている。それ故、ジェイムズは、精神というものがいつも「同じもの」について考えることを意図することができ、又精神が意図するときはそれを知ることができるという人間的事実から、「われわれが論理の数的に明確で永遠なる主題を同一化する機能」
(17)をさして概念とよぼうとするのである。
 その結果、ジェイムズにおいては概念はいずれもわれわれの注意が感じられた経験の連続体からわざわざきりはなし、われわれの個人的主題に供するように隔離したところのなにかであり、それ以上のものではなかったのである。従ってジェイムズにあっては「概念の起源に関するよりもっと主要な問題はその機能的用途と価値に関する問題であ」
(18)ったのである。
 しかしながら、ここでわれわれはジェイムズの辺縁ないしは包暈の概念から事物における絶対的矛盾が実は論理的に限定された想像的なものであり、現実においては「感じの事実」である限り事物が同質的対象であることに気づかねばならないだろう。このことはなにも唯名論と概念論にのみとどまらないであろう。考えthoughtと感じfeelingの違いも最終的には辺縁ないしは包暈の有無に帰される。同様に本能と理性の間の対立もジェイムズにおいては馬鹿げている。従って、いわんや人間における(あるいは他の動物においても)本能的反応と情緒的表現はお互いの中にぼかしこんでいく一つの機能をもっていて、明確に知覚的に区別されることは不可能である。宗教的にはジェイムズはアグノスティシズムagnosticismとグノスティシズムgnosticismを調停し、ジェイムズ独特の有神論を展開する。あるいは方法論的に形而上学的論争をおさめる方法としてプラグマティックな方法を採用し、経験論に組し、他方合理論にもそむかない、見事な立場をうちだす。又道徳的には楽観主義でも悲観主義でもないところの改善論をとなえる。etc……。
 このようなジェイムズの考えはすべて辺縁ないしは包暈の考えと密接に結びついている。そこでこれからあきらかなことは辺縁ないしは包暈は二重的性格をもっているという点である。一つはジェイムズの思想にみられる神秘主義的、形而上学的輝きの発露となってあらわれ、二つはきわめて世俗的特性にみまわれているかの如くに感じられる調停的態度の積極的主張となってあらわれている。
 これらの性格は一見矛盾的である。にもかかわらず、それらは同じ根、即ち「あいまいなもの」という存在に存在の権利を回復させようというところからきているのである。それ故に「あいまいなもの」が形而上学的輝きをもったものであろうが、二つの結び目をゆるめ、一つにする媒介的なものであろうと、「感じ」としては同じであり、対象が違うということによってそこに本質的な差異性をみつけることは不可能なのである。従ってわれわれはジェイムズのこういった考えから、彼が形而上学的輝きのある思想をもっているからといって、哲学者として崇拝するのも、又プラグマティストの彼には哲学がないときめつけるのも、的はずれの評価をしていることになるだろう。
 この考えは「あいまいなもの」を「感じ」ないしは「ある種の意識」としてうけとる必然の結果である。なぜならば、そこからわれわれにとってのすべての対象は「感じ」であるという結論が導出されるのはあきらかであるし、もしそうであるならば、われわれの精神に内在している仕方が問題であり、それらが何である考え方よりも、それらがどういう方向にむいているかを注目すればよいからである。そうなると重要なのはわれわれの精神が意図しているという作業そのものになり、そのため意図の結実は実際的結果として精神の前にあるものとすぐに結びつくということにもなろう。しかし、それは意図の結実がなんであるかをしつこく詮索しない限りは、なんら批判されるべき、非哲学性をもっていないのである。
 このわれわれの結論は次のようなジェイムズの直接の言葉によってあきらかにされるであろう。「われわれの思考がいかなる種類の精神、素材、いかなる性質の心像において進行してもほとんど、あるいは全く差異はない。……内在的に重要な唯一の心像とは考えの停止する点、一時的あるいは究極的な実質的結論である。考えの流れの他のあらゆる部分を通じては、関係の感じがすべてであり、名辞はほとんどなにも関係していない。名辞のまわりにあるこれら関係の感じ、心的上音、包暈、あふれでたもの、辺縁は心像が大変異なった体系をもっていても、同一であってもよい。目的が同じであるところでは心的手段についてどうでもよい……。(たとえば)Aを多くの思考者がはじめるある経験とし、Zをその経験から合理的に推論しえる実際的結論とする。ある人は一つの線によって結論に達し、他の人は他の線によって結論に達する。一人は英語の言語心像により、他の人はドイツ語の言語心像に従う。ある人には視覚心像が他を圧し、他の人には触覚心像が他を圧する。ある一行は情緒色があり、他のそれはそうではない。ある者は大変簡略で、総合的で急速であり、他のものは多くの段階でためらい、元気を失っている。しかしあらゆる行程の最後から二番目の名辞が、いかにおたがいに異なっていても、最後には同じ結論へとめがける時、あらゆる思考者は実質的に同じ考えをもっていたのだとわれわれは言っても間違いではないのである。」
(19)
 このジェイムズの言葉こそ、われわれが対象とすべきものがなんであるかの問いかけを軽視しその対象の機能性を重視している証左といえるのであり、従って、感じとしての対象がなんであれ、感じとしての対象があらゆる思考の主役であることを支持しているのである。

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